日本軍の記述がすごい シンガポール建国の父 リー・クアンユー元首相の回顧録

亡くなったリー・クアンユー氏

CNN.co.jp : リー・クアンユー氏死去、91歳 シンガポール建国の父 – (1/2)

シンガポールのリー・クアンユー元首相が死去、91歳 – WSJ

故リー・クアンユー氏の歩み – WSJ

安倍首相が葬儀に出席の模様

安倍首相、リー・クアンユー氏の国葬に出席へ  :日本経済新聞

こういうツイートが話題に

マンデラさんのには行かないけどこっちには行くのか。だったら日本占領時期死難人民記念碑には必ず立ち寄れよな、それが政治的なメッセージになるんだから/東京新聞:首相、リー氏国葬に参列検討 対シンガポール関係重視:政治(TOKYO Web)

自分らも開発独裁者になりたいからなのか、安倍周辺はクワンユーに親近感覚えているみたいだが彼の書いたこの回顧録読むと戦争中の日本軍の鬼畜の所業を彼は徹底的に批判をしてるのだけどね/リー・クアンユー回顧録〈上〉―ザ・シンガポールストーリー

わたしは日本の占領時代からどこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていたのである。byリー・クワンユー

あ、参考までに書いておくと、先ほど紹介したクワンユーの回顧録にはシンガポールにあった日本軍が作った慰安所についての記述もある。勿論華僑虐殺事件も詳細に触れている。なぜかクワンユー逝去後の日本のメディアに載ったクワンユー追悼の記事にはこの辺りの記述を殆ど見受けませんでしたが

https://twitter.com/gaitifuji/status/580588520072413185

リー・クアンユー回顧録

自分でも以前この回顧録を読んで印象に残っていたので引用を探してみたら有名なサイトにありました

リー・クアンユーと日本軍

少し転載させていただきます。

平手打ちをし私に脆くよう仕草をしてみせた

日本兵は少し多く払ってほしいと抗議する運転手の右腕をねじり、柔道技で空へ投げ上げてしまったのだ。

日本軍下士官が数人の兵士とともに我が家にやってきた。・・・彼らは我が家を一時、宿舎にすることを決めたようだ。 これが私の悪夢の始まりだった。

私は衣類を洗濯せず、風呂にも入っていない日本兵が放つ吐き気がするにおいには我慢できなかった。彼らは室内や敷地を歩き回った。 彼らは食料を探しており、私の母が蓄えた予備食料を見つけ、食べたいものは食べてしまった。

私が日本兵の要求をすぐに理解できずにいると、怒鳴られ何度も平手打ちを食らった。

日本軍は十八歳から五十歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため五ヵ所の検査所に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。

私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され二十二日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、四十、五十台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。 バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。

彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛もよだつ話を伝えた。

日本も二月十八日から二十二日までに六千人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラプ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は五万人から十万人に達した。

日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。

同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と白分たちは違うと考えていたのである。

他にも

リー・クアンユー氏のみた日本軍の慰安所 他

日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。日本軍も略奪行為を働いた。日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。

新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間も座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。

日本軍はシンガポールに全面的な服従を求め、大半の市民はそれに従った。人々は日本軍を嫌っていたものの、日本軍が自分たちを押さえ込む力を持っていることを心得ており、迎合していたのである。こうした事態に素早く対応できなかったり不快感を持った人や、新しい支配者を受け入れなかった人はひどい目にあった。

日本軍政は恐怖心を広めることでシンガポールの人々を統制した。日本軍は、気高く振舞おうとの姿勢はまったく見せなかった。

私は日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。私は毛沢東の「政権は銃口より生まれる」との言葉を知らなかった。しかし、日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして、だれが権限を持ち、何が忠誠心を含め人々の行動を変えることができるかという議論はすでに私は結論を出していた。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく、長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていらのである。シンガポール人が自分たちの子供を言葉、習慣や価値などの日本の新体制に適応できる人間に教育するように仕向けたのである。

ちなみに、日本占領時期死難人民記念碑とは

(Wikiですいませんが)

日本占領時期死難人民記念碑 – Wikipedia

第二次世界大戦時に日本がシンガポールを占領(1942年-1945年)してからシンガポール華僑虐殺事件で虐殺した華人・・・の霊をおさめる目的と、二度とこのようなことをおこさないようにとの願いが込められている。4本の塔が立っているがそれぞれ中国人、マレー人、インド人、ユーラシア人(欧亜混血者)の意味がある。

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