長島昭久・衆議院議員(民主党→自民党)が南京事件に関して自信満々にツイートするも、初歩の初歩でつまづきツッコミ殺到→弁明するもさらにツッコミ殺到

長島昭久・衆議院議員(民主党→自民党)が主党時代に南京事件に関して自信満々にツイートするも、初歩の初歩でつまづきツッコミ殺到し、その後、弁明ツイートするもさらにツッコミ殺到の件を記録。

長島昭久氏「説得力が勝負」「猛烈な抗議を理路整然とすべき」

ツッコミ殺到

日本近現代史が専門の歴史学者も。

歴史学辞典

南京城区には四〇万~五〇万人(南京攻略戦以前の人口は一〇〇万人以上)、近郊の六つの県には一〇〇万人前後(同じく一五〇万人以上)の市民が残留していた

弘文堂『歴史学事典 第7巻』「南京事件」(執筆者・笠原十九司)

南京事件FAQ

1. 人口問題関係 – 南京事件FAQ

陥落時の南京の人口は20万ではなかった

安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった

「20万都市で30万虐殺は不可能」論は欺瞞

占領後に人口が20万から25万に増えたというのは嘘

「人口論」の別バージョンも欺瞞である

15. 便衣兵論議 – 南京事件FAQ

「便衣兵狩り」とはなんだったのか

南京に便衣兵(ゲリラ)はいなかった

兵民分離は兵士の殺害を合法化しない

「便衣兵」も捕虜として扱わなければならない

無裁判処刑を合法とする慣習はなかった

炎上後、長島議員が弁明ツイート

さらにツッコミ殺到

その他、お役立ち基本情報など

日中歴史共同研究

外務省: 日中歴史共同研究(概要)

日中歴史共同研究 – Wikipedia

日中歴史研究報告書要旨 – 47NEWS(よんななニュース)

日中歴史共同研究報告書の要旨は次の通り。

 【南京大虐殺】

 ▽日本側

 日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。犠牲者数は20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がある。中国側の30万人以上という犠牲者数は南京軍事法廷に依拠している。食い違いの背景には虐殺の定義や対象地域、期間などの相違が存在する。虐殺の原因は、憲兵の数が少なく食糧や物資補給を無視した攻略で、略奪行為が起きたと指摘されている。中国軍の民衆保護対策にも欠如があった。

(波多野澄雄・筑波大教授、庄司潤一郎・防衛研究所第一戦史研究室長)

 ▽中国側

 日本軍は南京で多数の捕虜や住民を集団虐殺し、略奪を繰り広げた。重大な国際法違反だ。英国人や米国人の住居も略奪の目標にされた。日本軍は慰安所を設け、強制的に多くの女性を「性奴隷」とした。11歳から53歳までの中国人女性が強姦された。東京裁判は占領後1カ月間に南京市内で2万件近い強姦事件が起き、同6週間で市内や近郊で虐殺された民間人と捕虜は20万人以上と認定、南京軍事法廷は犠牲者数が計30万人以上とした。

(栄維木・社会科学院近代史研究所「抗日戦争研究」編集長)

「日中歴史共同研究」の座長、北岡伸一氏の見解

「北岡伸一『「日中歴史共同研究」を振り返る』より

南京事件をめぐって

 南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある。

 先述した通り、共同研究では南京事件にとくに時間をさいて議論してはいない。よく報告書を読んでもらえればわかるが、日本側は、日本側には犠牲音数について諸説あるということを紹介しているだけである。

 ただ、虐殺がなかったという説は受け入れられない。

 日本の近代史の研究者の中で、南京で相当数の不法な殺人・暴行があったということを認めない人はほとんどいない。それは、戦前から日本の内部でも不祥事として割合知られていた。中国国民党が宣伝に利用したことは確かだが、だから虐殺がなかったということにはならない。

 実際、多くの部隊の記録に、捕虜の「処分」に関する記述がある。「処分」のすべてではないにせよ、相当部分は処刑である。捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。

 便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍である。

 どの国でも最も愛国主義的な団体は、在郷軍人会など元軍人の組織である。日本陸軍では偕行社がそれであるが、偕行社は南京で調査を行ない、周囲からの強烈な批判にもかかわらず、虐殺があったと認定している(『南京戦史』)。(P235-P236)

 こうした不快な事実を直視する知的勇気こそが、日本の誇りなのであって、過去の非行を認めないのは、恥ずかしいことだと思う。

 また、われわれは報告書において、南京事件は主として日本に責任はあるが、中国側の対応にも問題があったことを指摘している。

 蒋介石は勝てるはずがないと知りながら南京防衛を決意し、かつ、南京戦の前に南京を脱出している。唐生智という南京防衛を担当した将軍も直前に脱出している。

 ふつう軍隊は勝てなくなったら降伏する。そうすると指揮官は軍法会議で死刑になるかもしれないが、兵士は助かる。それが戦闘のマナーなのであって、そういうことをしないで指揮官が脱出するという無責任な行動をとったことが大きな虐殺を引き起こした一因であることを明記した。中国側がよく受け入れたと思う。

 全体として中国側の出席者にはあまり柔軟な姿勢はみられなかったが、それでもこの点などは変化の兆しなのかもしれない。歴史家の秦郁彦氏が新聞紙上で同様に中国側の柔軟化について言及しているが(「産経新聞」二〇一〇年二月一日)、さすがは昭和史研究の第一人者だと感じた次第である。(P236)

(『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』所収)」

資料:「犠牲者数」をめぐる諸論 南京事件-日中戦争 小さな資料集

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歴史学辞典

平凡社 『日本史大事典 第5巻』

「南京大虐殺」(執筆者・江口圭一)

日中戦争で南京占領に際し日本軍によって中国軍民に加えられた大規模な残虐行為。一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に拡大、日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面し、大きな損害を被った。

十一月上旬ようやく中国軍を退却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、指揮下の上海派遣軍(軍司令官朝香宮鳩彦王中将)と第一〇軍(軍司令官柳川平助中将)を、与えられていた任務を逸脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。

上海戦で疲労し、凱旋の期待を裏切られた日本軍兵士は自暴自棄となり、補給がともなわず現地徴発に頼ったこと、中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれていたことなども加わって、南京への進撃途上ですでに掠奪・強姦・虐殺・放火などの非行が常態化する状況となった。

十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入場式に備え、徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで大量に処刑し、多数の一般市民をその巻き添えにし、略奪・強姦・放火を重ねた。さらに十二月二十二日、佐々木到一少将が城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと処刑を続け、三十八年二月初めに及んだ。

犠牲者数については中国側の公式見解は三十万人とするが、戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ進撃途中から三十八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人前後に達するとみられる。

この事件は「シカゴ・デイリー・ニューズ」(一九三七年十二月十五日付)、「ニューヨーク・タイムズ」(一九三七年十二月十八日付)などによって報道され、国際的非難を浴びたが、日本では厳重な報道管制を受け、日本国民は敗戦後の東京裁判によってようやくその事実を知らされた。同判決の結果、松井大将が大虐殺の責任者として死刑に処され、南京での裁判で第六師団長であった谷寿夫中将らが処刑された。

弘文堂『歴史学事典 第7巻』

「南京事件」(執筆者・笠原十九司)

日中戦争初期、当時の中国の首都南京を日本軍が攻略・占領した際に中国軍民にたいしておこなった虐殺、強姦、掠奪、放火、拉致、連行などの戦時国際法と国際人道法に反した大規模な残虐行為の総体。南京大虐殺事件、略称として南京事件という。単に南京大虐殺ともいう。

一九三七年(昭和十二)年十二月一日の大本営の下令によって正式に開始された南京攻略戦は、もともと参謀本部の作戦計画にはなかった。激戦三ヶ月におよび、甚大な損害を出した上海派遣軍を独断専行で南京に進撃させてのは、中支那方面軍司令官の松井石根大将と、参謀本部から出向して同軍の参謀副長となった拡大派の武藤章大佐らであった。

上海派遣軍は、疲弊して軍紀も弛緩していたうえに、休養も与えられず、補給体制も不十分なままに、難行軍を強いられたため、中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、掠奪、放火などの残虐行為を重ねながら南京に進撃していった。

十二月四日前後に中支那方面軍は、中国軍の南京防衛陣地(南京特別市行政区に重なる)に突入、南京の県城・農村地域から日本軍の残虐行為は開始された。南京城区には四〇万~五〇万人(南京攻略戦以前の人口は一〇〇万人以上)、近郊の六つの県には一〇〇万人前後(同じく一五〇万人以上)の市民が残留していたが、日本軍はこれらの膨大な中国民衆を巻き込んで、南京防衛軍に対する徹底した包囲殲滅(皆殺し)作戦を実施した。

同作戦は、戦時国際法に反して、自ら武装解除した投降兵・敗残兵あるいは武装解除された捕虜までもすべて殺害することになった。一般民衆も敵対行動、不審行動をする「敵国民」と判断された場合は殺害された。日本軍は、十二月十三日南京城を占領した後、十七日の南京入城式に備え、徹底した残敵掃蕩戦を展開、長江沿岸などで捕虜および投降兵の大量処刑を行なった。武器を捨て、軍服を脱ぎ捨てても、中国兵であった者、中国兵と思われた者はすべて殺害したので、多くの市民、難民が巻き添えにされて犠牲になった。

さらに日本軍には戦勝の「慰労」として一〇日間前後の「休養」が与えられ、総勢七万人以上の日本軍が南京城内に進駐、勝利者、征服者の「特権」として、強姦、掠奪、暴行、殺戮、放火などの不法行為を行ない、南京事件は頂点に達した。その後、第十六師団が駐屯して軍事占領を続け、三十八年三月二十八日に中華民国維新政府が成立するまで、日本軍の残虐行為は続いた。

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、南京事件による中国軍民の死者を二十万以上とし、不作為の責任を問われた松井石根が死刑となった。中国国民政府国防部戦犯軍事法廷(南京軍事裁判)では、犠牲者三十万以上とし、四人の将官が死刑となった。

一九七〇年代から八〇年代末にわたり、歴史事実か「虚構」「まぼろし」かをめぐっていわゆる「南京大虐殺論争」が展開され、家永教科書裁判の争点にもなったが、いずれも否定論が敗れた。犠牲者数の確定は困難であるが、現段階の日本側の研究では、十数万から二〇万人の中国軍民が犠牲になったと推定する説が有力である。

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