池上彰氏が2015年にテレ朝「池上彰のニュースそうだったのか!」で南京事件を解説しましたが、「南京人口20万」とか解説するなどいろいろひどかった模様を記録。
番組
●南京事件が登録されたことから話題となっている、ユネスコの世界記憶遺産。
そもそも記憶遺産とは何なのか、ユネスコとはどんな組織なのか、さらには日本はもう金を出さない!はアリなのか?
日本が脱退!ということも可能なのか?など詳しく解説します。
【ニュース解説】池上彰
【進行】宇賀なつみ(テレビ朝日アナウンサー)
ゲスト:内藤剛志・室井佑月・カンニング竹山・坂下千里子・
中田敦彦(オリエンタルラジオ)・澤部佑(ハライチ)・鈴木ちなみ
池上さんのひどい発言を書き起こし
「中国軍のゲリラ兵、あるいは中国の一般市民などを殺害したとされている事件」
「以前の教科書では、南京大虐殺と書かれていたんですけど、中国が大虐殺があったと言ったけれども、日本側で専門家が調べたら、それほどの数ではないんじゃないか、ということになり、南京大虐殺ってのはちょっと極端だよね、と、そういう意見があって、南京事件という表記に最近の日本の教科書は変わりつつあります。」
「南京大虐殺と習った人もいる、南京事件と習った人もいる。それは中国の言う犠牲者と日本側の言い分が大きく食い違っているからなんですね。」
「30万人を6週間で、毎日7千人を殺していかなければ、遺体をどうしたのか、これはありえないだろうということになる、さらに、当時、南京は、日本軍が入る前の人口は20万人、データがあるんですね。20万人のところでどうやって30万人殺せるんだろう。ということにもなる。」
「そもそも、なかったと言っている人もいる。いろいろな説がある。」
「2万人だったら大虐殺ではないのか、となると、これちょっとなかなか微妙ですね。」
南京事件FAQや歴史学辞典などで簡単におさらい
「ゲリラ兵」
呼称「南京大虐殺」「南京事件」の池上解説はおかしい。歴史学辞典は「南京大虐殺」でも「南京事件」でも犠牲者数の記述はほぼ同じ。
「当FAQで「南京大虐殺」ではなく「南京事件」としている理由は、事件を構成するものが「虐殺」だけではないからである。暴行や強姦、略奪、放火、拉致なども含めた多数の戦争犯罪の集積が南京事件であるのに、これを「南京大虐殺」とすると、まるで「虐殺」だけが問題であるかのように錯覚する人間が出てきてしまう(「結局、何人が死んだの?」と質問してくるような人が典型である)。
「南京事件」にはもちろん「大虐殺」も含まれるが、それだけが問題ではない。だからこそ「南京事件」という用語を使っているのであって、決して「大虐殺はなかったから南京事件と呼ぶべき」というような意見に組するからではない。」
歴史学辞典の項目と記述
平凡社 『日本史大事典 第5巻』
「南京大虐殺」(執筆者・江口圭一)
「犠牲者数については中国側の公式見解は三十万人とするが、戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ進撃途中から三十八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人前後に達するとみられる。」
長島昭久・衆議院議員(民主党→自民党)が南京事件に関して自信満々にツイートするも、初歩の初歩でつまづきツッコミ殺到→弁明するもさらにツッコミ殺到
弘文堂『歴史学事典 第7巻』
「南京事件」(執筆者・笠原十九司)
「日中戦争初期、当時の中国の首都南京を日本軍が攻略・占領した際に中国軍民にたいしておこなった虐殺、強姦、掠奪、放火、拉致、連行などの戦時国際法と国際人道法に反した大規模な残虐行為の総体。南京大虐殺事件、略称として南京事件という。単に南京大虐殺ともいう。・・・
犠牲者数の確定は困難であるが、現段階の日本側の研究では、十数万から二〇万人の中国軍民が犠牲になったと推定する説が有力である。」
長島昭久・衆議院議員(民主党→自民党)が南京事件に関して自信満々にツイートするも、初歩の初歩でつまづきツッコミ殺到→弁明するもさらにツッコミ殺到
項目が「南京大虐殺」でも「南京事件」でも犠牲者数の記述はほぼ同じ。
そして「十数万から二〇万人の中国軍民が犠牲になったと推定する説が有力」とする笠原氏の本の題名ももちろん「南京事件」。
笠原氏が池上さんの「中国が大虐殺があったと言ったけれども、日本側で専門家が調べたら、それほどの数ではないんじゃないか、ということになり、南京大虐殺ってのはちょっと極端だよね、と、そういう意見があって、南京事件という表記に最近の日本の教科書は変わりつつあります」「南京大虐殺と習った人もいる、南京事件と習った人もいる。それは中国の言う犠牲者と日本側の言い分が大きく食い違っているからなんですね」なんてトンデモ発言に同意する可能性はゼロでしょう。
南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書): 笠原 十九司
増補 南京事件論争史: 日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社ライブラリー) ): 笠原 十九司
池上さん「南京は、日本軍が入る前の人口は20万人、データがあるんですね」は間違い
歴史学辞典の記述
南京城区には四〇万~五〇万人(南京攻略戦以前の人口は一〇〇万人以上)、近郊の六つの県には一〇〇万人前後(同じく一五〇万人以上)の市民が残留していた
長島昭久・衆議院議員(民主党→自民党)が南京事件に関して自信満々にツイートするも、初歩の初歩でつまづきツッコミ殺到→弁明するもさらにツッコミ殺到
長島さんがドヤ顔で「そもそも当時の南京市人口が約20万人に過ぎず」と書いてツッコミ殺到。
「30万」や「可能?」や「遺体」や「虐殺とは?」などに関して
「30万人殺害されたとは言い切れない」と「30万人も殺されていない」の間の差 – Apes! Not Monkeys! はてな別館
(「30万人が殺害された、とする根拠が十分じゃない」から)直ちに「30万人も殺されていない」とするのは論理の飛躍である。「30万人も殺されていない」と主張するためには、それこそ安全区の人口を南京市の人口とすり替えるようなゴマカシ抜きで当時の人口移動について実証的な検証*1をし、「30万人も殺されたはずがない」ことを示す必要があろう。秦郁彦も(80年代には)こう言っていた。
「奥野元国土庁長官は「中国政府にかけあって紀念館のかかげる三十万の数字を訂正させろ」と迫って外務省を困惑させたが、代わる数字の持ちあわせがあったのだろうか。へたな数字を持ち出して根拠をただされれば恥をかくだけで、終戦直後の泥ナワとは言え、生きのこり被害者の証言を積みあげた三十万に対抗できる数字をわが方から出すのは不可能と思う。(「論争史から観た南京虐殺事件」、『昭和史の謎を追う』所収)」
「上限」の問題 – Apes! Not Monkeys! はてな別館
「敗戦時の資料焼却が「これだけのことしかしていない」を日本側資料で蓋然性の高い主張にすることを不可能にしています。」
昨日も(そしてそれまでも繰り返し)述べてきたように、南京攻略戦に参加した部隊の戦闘詳報のうち、今日現存していて研究者に資料として用いられているものよりも失われていない現存しない、見つかっていないものの方が多いわけです。ところで、戦闘詳報には捕虜の殺害、敗残兵の殺害が「戦果」として記載されています。敗残兵はともかく捕虜の殺害が戦闘詳報に書いてあること自体重大な意味をもつわけですがそれはおくとして、戦果として書いている以上過大に書くことはあっても過少に書くことは(なにか特別な理由でもない限り)ない。ということは、仮にすべての戦闘詳報が残っていれば、少なくとも捕虜、敗残兵の殺害に関する限り「上限が○○人くらい、それ以上ということはまずない」と相当の説得力をもって主張することができるわけです。・・・
つまり、被害(加害)規模がはっきりせず「30万人はない」と断言できない要因には自業自得的な側面もあるということです。
14万人と7万人、30万人と… – Apes! Not Monkeys! はてな別館
このように、加害者の側と被害者の側で事件についての見方が異なることはよくあることで、南京事件の犠牲者数についてもそうした文脈から考えておくべき側面がある。被害を受けた側の言い分を鵜呑みにする必要はないけれども、被害者の側のパースペクティヴを無視して「30万」という数字だけにこだわり、それを「捏造」呼ばわりするのは真っ当な態度とは言えまい3。南京軍事法廷に起源をもつ「30万」という数字には実証的な吟味に耐える根拠がないとしても、当時の様々な制約4の範囲内でそれなりに検討された数字ではあったのだ。また当時徹底的な調査をしていたら、判決が定義する「南京事件」の時間的・空間的範囲での犠牲者数はより少なくなる一方、上海戦~南京攻略戦全体での不法な殺害としてはより大きな数字が出た可能性は少なくないだろう。またしばしば「グレーゾーン」として議論の的になる「敗残兵」「便衣兵」の殺害にしても、自分の国が戦場になった側と他国で戦争をした側とではパースペクティヴがまったく異なる、ということを理解しておくべきだ(被爆の後遺症によって数年後に亡くなった人びとも原爆の犠牲者だ、と日本側が考えるのと同じように)。
「合法/不法」論を超えて – Apes! Not Monkeys! はてな別館
先日言及した西日本新聞の記事には「戦争中の不法殺害(虐殺)の定義には諸説あり」という一節があって、「虐殺=不法殺害」(ないし「虐殺⊆不法殺害」)ということが前提とされている。南京事件を巡る議論の原点に東京裁判があることを考えると「合法か不法か」が焦点の一つとなることはやむを得ない側面があるとは思うのだが、他方で私たちが東京大空襲や広島・長崎への原爆投下を考える際にその不法性を(法廷なり歴史学の土俵なりで通用する水準で)精緻に考えているだろうか? という疑問も浮かぶ。東京大空襲や原爆投下は“犯罪”として裁かれることがなかったが、私たちが犠牲者中の軍人・軍属の人数や軍需工場勤務者の人数をまるで意に介さずにいられるのは、ある意味でこれらの爆撃が裁かれずに終わったからではないのか? 東京大空襲が「不法」な戦争犯罪であることをきちんと論証する準備のある日本人はどれくらいいるだろうか?・・・
もちろん、私たちが東京大空襲や原爆の犠牲者のことを想起するとき、戦闘員と非戦闘員とを分けて考えるべきだといいたいわけではなく、被害者の視点からみれば合法/不法という区別は二次的なものに過ぎない、ということだ。
[南京事件] – Apes! Not Monkeys! はてな別館
ツイッター
ちなみに、ツイッターで、池上さんが「2万人で虐殺と言えるかどうか微妙」と発言したとしていろいろツイートがありましたが、正確には「2万人だったら大虐殺ではないのか、となると、これはちょっとなかなか微妙ですね」だったので、言い換えるとすると「2万人で大虐殺と言えるかどうか微妙」でしょうか。
もちろん、2万人を大虐殺と言えると思いますが。
池上彰がずるいのは、否定派の「学者」などの説を紹介するだけで、それらが完全に論破されている事実を諸説あるというだけでちゃんと紹介しなかったことだよ。だから視聴者は印象操作されることになる。
— mold (@lautrea) October 24, 2015
日本近現代史が専門の歴史学者の住友氏。
池上彰氏って、こんなウソやデマばかりを吹聴する人だったのですね。この人が出てるテレビは最初から見たことがなかったですが、ひどすぎますね。なぜ「南京大虐殺」と言わないで「南京事件」と学者が言うかというのを「大虐殺」を否定しているからだと珍説。吉田裕さんや秦郁彦さんも「南京事件」。
— 住友陽文 (@akisumitomo) October 26, 2015
歴史学辞典も一応
平凡社 『日本史大事典 第5巻』
「南京大虐殺」(執筆者・江口圭一)
日中戦争で南京占領に際し日本軍によって中国軍民に加えられた大規模な残虐行為。一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に拡大、日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面し、大きな損害を被った。
十一月上旬ようやく中国軍を退却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、指揮下の上海派遣軍(軍司令官朝香宮鳩彦王中将)と第一〇軍(軍司令官柳川平助中将)を、与えられていた任務を逸脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。
上海戦で疲労し、凱旋の期待を裏切られた日本軍兵士は自暴自棄となり、補給がともなわず現地徴発に頼ったこと、中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれていたことなども加わって、南京への進撃途上ですでに掠奪・強姦・虐殺・放火などの非行が常態化する状況となった。
十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入場式に備え、徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで大量に処刑し、多数の一般市民をその巻き添えにし、略奪・強姦・放火を重ねた。さらに十二月二十二日、佐々木到一少将が城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと処刑を続け、三十八年二月初めに及んだ。
犠牲者数については中国側の公式見解は三十万人とするが、戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ進撃途中から三十八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人前後に達するとみられる。
この事件は「シカゴ・デイリー・ニューズ」(一九三七年十二月十五日付)、「ニューヨーク・タイムズ」(一九三七年十二月十八日付)などによって報道され、国際的非難を浴びたが、日本では厳重な報道管制を受け、日本国民は敗戦後の東京裁判によってようやくその事実を知らされた。同判決の結果、松井大将が大虐殺の責任者として死刑に処され、南京での裁判で第六師団長であった谷寿夫中将らが処刑された。
弘文堂『歴史学事典 第7巻』
「南京事件」(執筆者・笠原十九司)
日中戦争初期、当時の中国の首都南京を日本軍が攻略・占領した際に中国軍民にたいしておこなった虐殺、強姦、掠奪、放火、拉致、連行などの戦時国際法と国際人道法に反した大規模な残虐行為の総体。南京大虐殺事件、略称として南京事件という。単に南京大虐殺ともいう。
一九三七年(昭和十二)年十二月一日の大本営の下令によって正式に開始された南京攻略戦は、もともと参謀本部の作戦計画にはなかった。激戦三ヶ月におよび、甚大な損害を出した上海派遣軍を独断専行で南京に進撃させてのは、中支那方面軍司令官の松井石根大将と、参謀本部から出向して同軍の参謀副長となった拡大派の武藤章大佐らであった。
上海派遣軍は、疲弊して軍紀も弛緩していたうえに、休養も与えられず、補給体制も不十分なままに、難行軍を強いられたため、中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、掠奪、放火などの残虐行為を重ねながら南京に進撃していった。
十二月四日前後に中支那方面軍は、中国軍の南京防衛陣地(南京特別市行政区に重なる)に突入、南京の県城・農村地域から日本軍の残虐行為は開始された。南京城区には四〇万~五〇万人(南京攻略戦以前の人口は一〇〇万人以上)、近郊の六つの県には一〇〇万人前後(同じく一五〇万人以上)の市民が残留していたが、日本軍はこれらの膨大な中国民衆を巻き込んで、南京防衛軍に対する徹底した包囲殲滅(皆殺し)作戦を実施した。
同作戦は、戦時国際法に反して、自ら武装解除した投降兵・敗残兵あるいは武装解除された捕虜までもすべて殺害することになった。一般民衆も敵対行動、不審行動をする「敵国民」と判断された場合は殺害された。日本軍は、十二月十三日南京城を占領した後、十七日の南京入城式に備え、徹底した残敵掃蕩戦を展開、長江沿岸などで捕虜および投降兵の大量処刑を行なった。武器を捨て、軍服を脱ぎ捨てても、中国兵であった者、中国兵と思われた者はすべて殺害したので、多くの市民、難民が巻き添えにされて犠牲になった。
さらに日本軍には戦勝の「慰労」として一〇日間前後の「休養」が与えられ、総勢七万人以上の日本軍が南京城内に進駐、勝利者、征服者の「特権」として、強姦、掠奪、暴行、殺戮、放火などの不法行為を行ない、南京事件は頂点に達した。その後、第十六師団が駐屯して軍事占領を続け、三十八年三月二十八日に中華民国維新政府が成立するまで、日本軍の残虐行為は続いた。
極東国際軍事裁判(東京裁判)では、南京事件による中国軍民の死者を二十万以上とし、不作為の責任を問われた松井石根が死刑となった。中国国民政府国防部戦犯軍事法廷(南京軍事裁判)では、犠牲者三十万以上とし、四人の将官が死刑となった。
一九七〇年代から八〇年代末にわたり、歴史事実か「虚構」「まぼろし」かをめぐっていわゆる「南京大虐殺論争」が展開され、家永教科書裁判の争点にもなったが、いずれも否定論が敗れた。犠牲者数の確定は困難であるが、現段階の日本側の研究では、十数万から二〇万人の中国軍民が犠牲になったと推定する説が有力である。
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